「ブラックボックスによろしく」 (2003年10月18日)

 ブラックボックスは、単にオープンソースに相対するものということではない。
 今、情報システムが企業活動の基盤となったことは、周知の事実かもしれないが、その情報システムのカルチャー的背景として、非常に意味深い象徴なのである。情報システムを利用するユーザー企業側にとってのブラックボックスについて、再考察してみたい。

■ 基本ソフト(OS)だけではない

 ブラックボックスのソフトウェアについては、ネットワークとサーバーが普及した現在の状況下では、情報漏洩に関するリスクを伴っていることは既に説明した。
 しかも、情報システムにおいては、基本ソフトのみならず、ミドルウェアや業務アプリケーションについても、ブラックボックスは大きな影を落とす。
 ソフト会社に依頼したアプリケーション・プログラムの中に、情報漏洩を支援するコードが入っていても、これがライブラリと称したソフト会社のみのブラックボックスであったら、ユーザー企業は情報漏洩のリスクにさらされる。
 ユーザー企業としては、本来、基本ソフトなどパッケージ・ソフトウェアに対して、ソースコードの透明性を要求するとともに、開発費用を支払ったアプリケーション部分についても、全てソースコードを含めてソフト会社からもらっておく必要がある。ライブラリ・ソフトもソースコードの開示を求めるべきだ。
 他への流用や転売などは行わないという契約をしても構わないから、ソースコードを開示させることを、提供するベンダーに要求していくべきだ。
 いくら高価なセキュリティ・ソフトを導入し、外部からの侵入を防いだとしても、内部で稼働しているプログラムが秘密情報のデータを外部へ運び出すように組まれていたら、全く意味がない。
 これは、単にオープンソースとするか否かではなく、自社のシステムについては、自社で把握するリスク管理体質を持つことの問題である。

■ バージョンアップとサポート

 さらにブラックボックスで問題となるのは、バージョンアップやサポートの期限がベンダーによって左右されることである。
 情報システムの修正は、本来、「事業」環境の変化として、法改正や機能拡張、新規事業の展開などによって行われるのが正常である。
 しかし、「システム」環境の変化や、使用するソフトウェアのバージョンアップによってシステムを修正するケースが多い。
 つまり、ユーザーの意志とは別のもので、システムの改修を余儀なくされることである。古いバージョンのソフトウェアを使い続けると、新しいシステムでは基本ソフトやデータベースなどとの連携がうまく行かなくなり、古いバージョンのものを使い続けなくてはならない事例も多い。
 その内に、その古いバージョンは、販売されなくなり、サポートも打ち切られることとなる。サポートを打ち切られると、ユーザーは新しいバージョンのソフトに変更して、自身のアプリケーションを修正せざるを得ない。したがって、ユーザーの意志でない情報化投資が繰り返されることになる。
 パッケージ・ベンダーには、このような古いバージョンのソースコードを、希望するユーザー企業に提供するサービスでも考えていただきたい。
サポートを継続していくためには、ある程度のまとまったユーザー企業の数が必要なことは理解できるが、サポートを打ち切る場合は、既存ユーザーへの配慮を忘れないようにして欲しい。

■ 掌の中の技術

 「日本経済の停滞は、Windowsの普及とほぼ時期を一にしている」
 1997年、サンマイクロシステムズの元専務の話であった。始めは笑い話と思っていたが、最近は真実味を帯びてきた。
 Windowsの出現は、基本ソフト以下のレイアをブラックボックス化した。コマンド命令による操作も全てGUI化していった。
 開発技術者は、Windowsをベースにシステムを構築しなくてはならない状態となったのである。従来は、基本ソフトで不足する部分があれば、自分で追加などして基本ソフトの問題をクリアしたりもした。しかし、Windowsの時代になってからは、これより先はマイクロソフトの問題として、ソフトハウスがエクスキューズすることが一般的となってしまった。
 日本のソフトハウスが行っている開発は、マイクロソフトなどベンダーの「掌の中の技術」言わば利用技術や応用技術の世界となってしまっている。この技術チャレンジ精神のモチベーション低下が、日本経済の停滞を招いているというのは、確かに一つの解でもある。

 ある米国のソフト会社幹部は、「グローバリゼーションとは、他国向けローカライズを米国で実施し、その国に使ってもらうことだ」と言ってのけた。情報システムも、一つの文化と考えれば、単に英語化したり、米国流の合理的なソフトを作ることは、米国”グローバル”企業の思う壷かも知れない。
 米国のソフト会社の日本法人には、ソフトウェアのソースコードを改変する開発者はいない。日本法人に必要なのは、出来上がったパッケージ・ソフトを「理解」してサポートする人たちなのだ。言わば「知識」のみの技術者が採用されるのだから、技術力の低下はやむを得ない。
 ブラックボックス化されたこのようなパッケージは、日本の隅々まで広がり、「バージョンアップをするから何万円づつ支払え」「今年でサポートを打ち切るので、新しいシステムに移行せよ」などと言うベンダーからの指示が、日常化してしまうのである。

 米国的合理主義が全面に働き、個々の企業向けのシステムを作るよりも、パッケージ化して、各ユーザー企業ごとに作るよりも廉価に導入できると思われている。
 そして、業務処理システムまでが、BPRから始まった仕事の手順や方法に関してのリエンジニアリングとしてERPを産み出し、一般化していって日本の各企業の個性すら合理化しようとしている。
 このままで良いのだろうか?

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