最近、「このOSには、この機能がない」「この言語は、パフォーマンスが問題だ」などの声をよく聞く。「だから、この仕事はできない」という。前回指摘した「掌の中の技術」に慣れてしまった人たちが多くなった結果だ。
この解決策は、原点に還ることである。コンピュータはもともと「汎用」の機械であり、基本的には全ての業務処理を可能とするものである。無いものは作ってしまえば良いと言う日本の先達たちの心意気を、IT業界全体でそろそろ考えて直してみる必要がある。
■ 「汎用」の機械
大型コンピュータのことを大型汎用機と言う。もともと機械は、テレビにしろ、冷蔵庫にしろ、自動車にしろ、それぞれの機能を持った専用機であった。
コンピュータが出現し、電子計算機と訳されたこともあり、当時は計算を高速に行うもののイメージがあったが、その高速な計算と記憶する力により、ソフトウェアを変更することで様々な処理を実現する機械「汎用機」となったのである。
モノの生産をコントロールしたり、帳簿を付けて集計したり、記録された過去のデータを元に分析したりなど、いろいろな業務処理を同一の仕組みの機械で実現することができるようになった。もちろん、このような業務処理は、「汎用機」を導入すれば、すぐに利用できた訳ではない。必要なソフトウェアや入出力装置などをコンピュータを使うユーザー企業の人達がコンピュータ会社の人達と一緒に作って来たのである。
1964年、東京オリンピックが開催された。首都高速道路ができ新幹線で開通して、日本は戦後から高度成長へと向かっていくことになる。この東京オリンピックのころから、鉄鋼や金融などを中心に、コンピュータの業務処理利用が広がっていった。もともとコンピュータを勉強していた人などほとんどいない。それまで、一般的な業務遂行をしていた人たちが集まり、偉大なる「汎用機」の利用に日本の様々な業界の挑戦が始まったのである。
必要なものがあれば、その都度、新たなソフトウェアが作られ、コンピュータがより汎用となっていった。
更に、パソコンの出現は、この汎用機としての特殊性を、個人利用のレベルにまで広げることができた素晴らしい進化だと思う。コンピュータの小型化とともに、アプライアンス製品として専用機械化する動きも活発化してきている。最近では、コンピュータを家電製品や自動販売機などに組込み、専用機に汎用的機能を持たせる方向も進展している。
ただ、機能的な限界を専用機的に画一的に把握してしまう人が、ソフトウェア技術者の中にも多いような気がする。
もう一度、コンピュータは「汎用機」であると言うこと、そして、何にでもトライできるということを再認識しておきたい。
■ ビジネスチャンスの発想
1997年5月、米サンマイクロシステムズの本社を訪ねたことがある。
1995年に発表されたJavaは、当時の米Byte誌の表紙を「Can Java replace Windows?」と言うタイトルで飾るまでに有名になっていた。そのころのJavaは、まだサープレットはなくアプレットが中心であったこともあり、ブラウザだけでマイクロソフトのWindowsを代替するデスクトップを作る方向であったことを象徴している。
その本家である米サンマイクロシステムズで、ひとつの質問をした。
「現在、御社の中で、業務処理システムにJavaを使っているのは、何パーセントくらいあるのでしょうか?」と。回答は、説明に来ていた人たちが相談をし始め、開発中のものはあるが、本番で稼働しているものは一つのサブシステムもないとのことであった。
この話を聞いて、読者の方々はどう考えるであろうか?
大半のソフトウェア技術者たちは、提供している本家ですら本格的に使用していないものは、まだ使わない方が良いと思うだろう。
筆者はビジネスチャンスだと思った。サンマイクロシステムズ本体ですら、まだ十分な準備ができていない。今から開発していけば、ある分野で今後の世界標準のシステムを作れるかも知れない。そう思ったのは筆者だけではない。カナダや英国や韓国などの企業も、これをビジネスチャンスと認識し、Javaでできないこと、処理が遅いこと、業務処理に活用することなどに挑戦していった。
しかし、日本のSIやベンチャーのほとんどは、待つ道を選んだような気がする。
このような話をすると、「うちは松下型だから」という答えがよく返ってくる。
世の中に普及するのを待ち、普及してから参入すれば十分間に合うと言うものである。しかし、松下型は横綱相撲である。ベンチャーや中堅中小のSIが口にすべきではない。
分業と言う名のもとに、与えられた世界の中だけで考えるのではなく、無いものは作る、遅いものは早くする。これが「汎用機」におけるソフトウェアの挑戦であり、ビジネスチャンスの発掘である。
ただ実際には、ベンチャーには資金がなくて、研究開発する余裕はない。システムを利用するユーザー企業とよく話をしよう。そこで実現するシステムが如何に有効で、将来の日本にとっても重要なチャレンジになるかということを。
情報処理システムは、使ってくれて処理が早くなったとか、費用が安くなったとかの有効性が重要である。その技術が、有効性を追求するものであれば、きっと分かってくれるユーザー企業は見つかるし、ともに苦労をしてくれるものである。これが日本の文化のもとでもある。
■ 日本文化の進展からITを考える
ヨーロッパの各地では、美しいフィニッシュと木目細かなストーリーが受けて、日本のアニメーションのテレビ放映が急増している。コミックの単行本も爆発的なヒットとなっているとのことである。世界にも通用する文化なのである。
しかし、ここでよく考えていただきたいのは、前回にも触れたグローバリゼーションという言葉である。今の日本のソフトウェア技術者は、世界に通用するソフトウェアを作るには、世界のニーズに配慮し英語で作らなければならないと考えている人が多い。
これらのアニメーションやコミックは、世界に向けて作られたのだろうか?
そんなことはない。日本という文化圏において、日本人に向けて作られたものが、世界に認められたのだ。ローカライズは、世界の国々の人たちが、ビジネスとして必要に迫られ行ってきている。
日本の子供たちは、米国のコミックやゲームを日本語化しても、つまらないと言うだろう。現実として、マイクロソフトのXBOXのゲームパッドは、大き過ぎてカッコ悪いそうである。
これから伸びそうなITのビジネス分野を見極め、世界的にみてもトップクラスの繊細さを持つ日本という文化圏をターゲットに、世界の人たちも納得できるソフトウェアを作る、そんなチャレンジをともにして行こうではないか?
因みに、日本文化の海外認知としては、ある外国の女性ロック歌手は、日本の女子高生のルーズソックスを見て、素晴らしいファッションだと言ったとか、秋葉原”新”文化の中心となっているフィギュアモデルのような村上隆氏の少女像が、ニューヨークのオークションで6,800万円で落札された。などなど、新しい日本文化の息吹は大きく広がっている。