「そろそろ変わろうIT業界」 (2003年7月3日)

 最近、「このOSには、この機能がない」「この言語は、パフォーマンスが問題だ」などの声をよく聞く。「だから、この仕事はできない」という。前回指摘した「掌の中の技術」に慣れてしまった人たちが多くなった結果だ。
 この解決策は、原点に還ることである。コンピュータはもともと「汎用」の機械であり、基本的には全ての業務処理を可能とするものである。無いものは作ってしまえば良いと言う日本の先達たちの心意気を、IT業界全体でそろそろ考えて直してみる必要がある。

■ 「汎用」の機械

 大型コンピュータのことを大型汎用機と言う。もともと機械は、テレビにしろ、冷蔵庫にしろ、自動車にしろ、それぞれの機能を持った専用機であった。
 コンピュータが出現し、電子計算機と訳されたこともあり、当時は計算を高速に行うもののイメージがあったが、その高速な計算と記憶する力により、ソフトウェアを変更することで様々な処理を実現する機械「汎用機」となったのである。
 モノの生産をコントロールしたり、帳簿を付けて集計したり、記録された過去のデータを元に分析したりなど、いろいろな業務処理を同一の仕組みの機械で実現することができるようになった。もちろん、このような業務処理は、「汎用機」を導入すれば、すぐに利用できた訳ではない。必要なソフトウェアや入出力装置などをコンピュータを使うユーザー企業の人達がコンピュータ会社の人達と一緒に作って来たのである。
 1964年、東京オリンピックが開催された。首都高速道路ができ新幹線で開通して、日本は戦後から高度成長へと向かっていくことになる。この東京オリンピックのころから、鉄鋼や金融などを中心に、コンピュータの業務処理利用が広がっていった。もともとコンピュータを勉強していた人などほとんどいない。それまで、一般的な業務遂行をしていた人たちが集まり、偉大なる「汎用機」の利用に日本の様々な業界の挑戦が始まったのである。
 必要なものがあれば、その都度、新たなソフトウェアが作られ、コンピュータがより汎用となっていった。
 更に、パソコンの出現は、この汎用機としての特殊性を、個人利用のレベルにまで広げることができた素晴らしい進化だと思う。コンピュータの小型化とともに、アプライアンス製品として専用機械化する動きも活発化してきている。最近では、コンピュータを家電製品や自動販売機などに組込み、専用機に汎用的機能を持たせる方向も進展している。

 ただ、機能的な限界を専用機的に画一的に把握してしまう人が、ソフトウェア技術者の中にも多いような気がする。
 もう一度、コンピュータは「汎用機」であると言うこと、そして、何にでもトライできるということを再認識しておきたい。

■ ビジネスチャンスの発想

 1997年5月、米サンマイクロシステムズの本社を訪ねたことがある。
 1995年に発表されたJavaは、当時の米Byte誌の表紙を「Can Java replace Windows?」と言うタイトルで飾るまでに有名になっていた。そのころのJavaは、まだサープレットはなくアプレットが中心であったこともあり、ブラウザだけでマイクロソフトのWindowsを代替するデスクトップを作る方向であったことを象徴している。
 その本家である米サンマイクロシステムズで、ひとつの質問をした。
 「現在、御社の中で、業務処理システムにJavaを使っているのは、何パーセントくらいあるのでしょうか?」と。回答は、説明に来ていた人たちが相談をし始め、開発中のものはあるが、本番で稼働しているものは一つのサブシステムもないとのことであった。

 この話を聞いて、読者の方々はどう考えるであろうか?
 大半のソフトウェア技術者たちは、提供している本家ですら本格的に使用していないものは、まだ使わない方が良いと思うだろう。
 筆者はビジネスチャンスだと思った。サンマイクロシステムズ本体ですら、まだ十分な準備ができていない。今から開発していけば、ある分野で今後の世界標準のシステムを作れるかも知れない。そう思ったのは筆者だけではない。カナダや英国や韓国などの企業も、これをビジネスチャンスと認識し、Javaでできないこと、処理が遅いこと、業務処理に活用することなどに挑戦していった。
 しかし、日本のSIやベンチャーのほとんどは、待つ道を選んだような気がする。

 このような話をすると、「うちは松下型だから」という答えがよく返ってくる。
 世の中に普及するのを待ち、普及してから参入すれば十分間に合うと言うものである。しかし、松下型は横綱相撲である。ベンチャーや中堅中小のSIが口にすべきではない。
 分業と言う名のもとに、与えられた世界の中だけで考えるのではなく、無いものは作る、遅いものは早くする。これが「汎用機」におけるソフトウェアの挑戦であり、ビジネスチャンスの発掘である。

 ただ実際には、ベンチャーには資金がなくて、研究開発する余裕はない。システムを利用するユーザー企業とよく話をしよう。そこで実現するシステムが如何に有効で、将来の日本にとっても重要なチャレンジになるかということを。
 情報処理システムは、使ってくれて処理が早くなったとか、費用が安くなったとかの有効性が重要である。その技術が、有効性を追求するものであれば、きっと分かってくれるユーザー企業は見つかるし、ともに苦労をしてくれるものである。これが日本の文化のもとでもある。

■ 日本文化の進展からITを考える

 ヨーロッパの各地では、美しいフィニッシュと木目細かなストーリーが受けて、日本のアニメーションのテレビ放映が急増している。コミックの単行本も爆発的なヒットとなっているとのことである。世界にも通用する文化なのである。
 しかし、ここでよく考えていただきたいのは、前回にも触れたグローバリゼーションという言葉である。今の日本のソフトウェア技術者は、世界に通用するソフトウェアを作るには、世界のニーズに配慮し英語で作らなければならないと考えている人が多い。
 これらのアニメーションやコミックは、世界に向けて作られたのだろうか?
 そんなことはない。日本という文化圏において、日本人に向けて作られたものが、世界に認められたのだ。ローカライズは、世界の国々の人たちが、ビジネスとして必要に迫られ行ってきている。
 日本の子供たちは、米国のコミックやゲームを日本語化しても、つまらないと言うだろう。現実として、マイクロソフトのXBOXのゲームパッドは、大き過ぎてカッコ悪いそうである。

 これから伸びそうなITのビジネス分野を見極め、世界的にみてもトップクラスの繊細さを持つ日本という文化圏をターゲットに、世界の人たちも納得できるソフトウェアを作る、そんなチャレンジをともにして行こうではないか?

 因みに、日本文化の海外認知としては、ある外国の女性ロック歌手は、日本の女子高生のルーズソックスを見て、素晴らしいファッションだと言ったとか、秋葉原”新”文化の中心となっているフィギュアモデルのような村上隆氏の少女像が、ニューヨークのオークションで6,800万円で落札された。などなど、新しい日本文化の息吹は大きく広がっている。

「ブラックボックスによろしく」 (2003年10月18日)

 ブラックボックスは、単にオープンソースに相対するものということではない。
 今、情報システムが企業活動の基盤となったことは、周知の事実かもしれないが、その情報システムのカルチャー的背景として、非常に意味深い象徴なのである。情報システムを利用するユーザー企業側にとってのブラックボックスについて、再考察してみたい。

■ 基本ソフト(OS)だけではない

 ブラックボックスのソフトウェアについては、ネットワークとサーバーが普及した現在の状況下では、情報漏洩に関するリスクを伴っていることは既に説明した。
 しかも、情報システムにおいては、基本ソフトのみならず、ミドルウェアや業務アプリケーションについても、ブラックボックスは大きな影を落とす。
 ソフト会社に依頼したアプリケーション・プログラムの中に、情報漏洩を支援するコードが入っていても、これがライブラリと称したソフト会社のみのブラックボックスであったら、ユーザー企業は情報漏洩のリスクにさらされる。
 ユーザー企業としては、本来、基本ソフトなどパッケージ・ソフトウェアに対して、ソースコードの透明性を要求するとともに、開発費用を支払ったアプリケーション部分についても、全てソースコードを含めてソフト会社からもらっておく必要がある。ライブラリ・ソフトもソースコードの開示を求めるべきだ。
 他への流用や転売などは行わないという契約をしても構わないから、ソースコードを開示させることを、提供するベンダーに要求していくべきだ。
 いくら高価なセキュリティ・ソフトを導入し、外部からの侵入を防いだとしても、内部で稼働しているプログラムが秘密情報のデータを外部へ運び出すように組まれていたら、全く意味がない。
 これは、単にオープンソースとするか否かではなく、自社のシステムについては、自社で把握するリスク管理体質を持つことの問題である。

■ バージョンアップとサポート

 さらにブラックボックスで問題となるのは、バージョンアップやサポートの期限がベンダーによって左右されることである。
 情報システムの修正は、本来、「事業」環境の変化として、法改正や機能拡張、新規事業の展開などによって行われるのが正常である。
 しかし、「システム」環境の変化や、使用するソフトウェアのバージョンアップによってシステムを修正するケースが多い。
 つまり、ユーザーの意志とは別のもので、システムの改修を余儀なくされることである。古いバージョンのソフトウェアを使い続けると、新しいシステムでは基本ソフトやデータベースなどとの連携がうまく行かなくなり、古いバージョンのものを使い続けなくてはならない事例も多い。
 その内に、その古いバージョンは、販売されなくなり、サポートも打ち切られることとなる。サポートを打ち切られると、ユーザーは新しいバージョンのソフトに変更して、自身のアプリケーションを修正せざるを得ない。したがって、ユーザーの意志でない情報化投資が繰り返されることになる。
 パッケージ・ベンダーには、このような古いバージョンのソースコードを、希望するユーザー企業に提供するサービスでも考えていただきたい。
サポートを継続していくためには、ある程度のまとまったユーザー企業の数が必要なことは理解できるが、サポートを打ち切る場合は、既存ユーザーへの配慮を忘れないようにして欲しい。

■ 掌の中の技術

 「日本経済の停滞は、Windowsの普及とほぼ時期を一にしている」
 1997年、サンマイクロシステムズの元専務の話であった。始めは笑い話と思っていたが、最近は真実味を帯びてきた。
 Windowsの出現は、基本ソフト以下のレイアをブラックボックス化した。コマンド命令による操作も全てGUI化していった。
 開発技術者は、Windowsをベースにシステムを構築しなくてはならない状態となったのである。従来は、基本ソフトで不足する部分があれば、自分で追加などして基本ソフトの問題をクリアしたりもした。しかし、Windowsの時代になってからは、これより先はマイクロソフトの問題として、ソフトハウスがエクスキューズすることが一般的となってしまった。
 日本のソフトハウスが行っている開発は、マイクロソフトなどベンダーの「掌の中の技術」言わば利用技術や応用技術の世界となってしまっている。この技術チャレンジ精神のモチベーション低下が、日本経済の停滞を招いているというのは、確かに一つの解でもある。

 ある米国のソフト会社幹部は、「グローバリゼーションとは、他国向けローカライズを米国で実施し、その国に使ってもらうことだ」と言ってのけた。情報システムも、一つの文化と考えれば、単に英語化したり、米国流の合理的なソフトを作ることは、米国”グローバル”企業の思う壷かも知れない。
 米国のソフト会社の日本法人には、ソフトウェアのソースコードを改変する開発者はいない。日本法人に必要なのは、出来上がったパッケージ・ソフトを「理解」してサポートする人たちなのだ。言わば「知識」のみの技術者が採用されるのだから、技術力の低下はやむを得ない。
 ブラックボックス化されたこのようなパッケージは、日本の隅々まで広がり、「バージョンアップをするから何万円づつ支払え」「今年でサポートを打ち切るので、新しいシステムに移行せよ」などと言うベンダーからの指示が、日常化してしまうのである。

 米国的合理主義が全面に働き、個々の企業向けのシステムを作るよりも、パッケージ化して、各ユーザー企業ごとに作るよりも廉価に導入できると思われている。
 そして、業務処理システムまでが、BPRから始まった仕事の手順や方法に関してのリエンジニアリングとしてERPを産み出し、一般化していって日本の各企業の個性すら合理化しようとしている。
 このままで良いのだろうか?

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